チェルノブイリ原発事故がはじまりだった

 1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故が起こった。それが、スラーデクさん家族の人生を大きく変えることになる。当時、ウルズラさんは学校の先生。夫のミヒァエルさんは医師で、息子のセバスチャンさんは9歳だった。将来、グリーン電力を供給するようになるとは、夢にも思わなかった。

 ドイツは、チェルノブイリから1500キロメートル以上も離れている。でも、放射性物質を含んだ雲が流れてきた。ウルズラさんはちょうどその時、スキーで大腿骨を複雑骨折して自宅で養生していた。事故後の5月は、ドイツで最もいい季節。新緑の緑が青々と茂りはじめ、長い冬の間に落ち込んだ気分が急に開放的になる。こんな清々しい季節に、ウルズラさんの子どもたち5人が自宅に閉じこもっているはずがない。被ばくする心配があるので外で遊んではいけないと忠告しても、子どもたちはまったく聞き入れなかった。自由奔放に、外で遊び回っていた。

 ウルズラさんは、不安でしようがない。ちょうどそんな時、町の市民報を読んでいたら、一つのメッセージがウルズラさんの目にとまった。

「チェルノブイリ事故後、子どもや孫の将来に不安を抱いていませんか。何かしたいのだが、どうしていいかわからない人いませんか。放射能と化学薬品によって、環境が汚染されるのはもう許せません。一緒に行動しませんか」

 メッセージを投稿したのは、2人の子どもを持つザビーネさんとヴォルフ・ディーターさんの夫婦だった。

 それをきっかけにして、放射能汚染に不安を抱く小さな親のグループが誕生した。グループは当初9人、小さな子どもを持つ親ばかりだった。ウルズラさんもその一人だった。

 最初は、『原子力に反対する親の会』とした。毎週、親として、市民として原子力に反対して何ができるかを話し合った。しかしチェルノブイリ事故後1年余り経つと、『原子力のない未来をつくる親の会』と改名した。単に原子力に反対するのではなく、そこから何か得るものがないと活動する意味がない。何かのために戦いたかった。原子力発電を止めるだけではダメ。活動しながら何かを得て楽しもうが、グループのモットーだった。最終的にグループは、省エネと発電の分散化を目指すことにした。

 グループの生活するシェーナウは、⎡黒い森⎦にある。戦前は繊維産業が盛んで、そのために利用されていた水車など小さな水力発電施設がたくさんあった。しかしナチスの時代に入ると、小さな発電設備は次々に閉鎖されていった。軍需産業が多量な電気を必要とすることから、ナチス政府が大型発電施設を優先させていったのだ。その大型設備を優先する構造が、今も依然として法的に優遇されている。

 それに気づいたのは、ミヒァエルさんだった。

 地元にある小さな水力発電施設を再生するべきだ。大型設備で発電するのではなく、小型設備を復活させて発電できるようにしたい。そのため、ミヒァエルさんを中心にして関連法の改正を求めて政府に陳情した。

 しかし、政治は動かなかった。ミヒァエルさんたちは、すぐに頭を切り替えた。市民が政治を動かそうとしても無理。まず、自分たちの足元で下から行動するしかない。脱原発は、市民が自分たちの生活する地元ではじめるしかない。グループのメンバーたちはそう感じた。そして、活動を地元シェーナウに集中させることにした。

 ミヒァエルさんら市民グループはまず、町中で省エネ競争をはじめた。一般家庭ばかりでなく、学校や病院などの公的機関にも参加を募った。電気の消費量を一番減らしのは誰か、みんなで競い合った。グループのメンバーは、どうすれば省エネできるか、個人的にアドバイスした。省エネに関して、講演やコンサートなども企画した。こうして、省エネを町中に浸透させようとした。

 そこから生まれたのが、家電製品に補助電気メーターをつけるというアイディアだった。そうすれば、いつでも電気の消費量がわかるようになる。電気メーターは、目のつきやすいところに設置すればいい。地元に電気を供給している配電会社が中古の電気メーターをたくさん持っているという情報を得た。すぐに、譲ってもらえるよう交渉した。

 しかし、門前払い同然だった。省エネによって電気を供給するビジネスを妨害するのだから、訴えるぞとまで脅された。

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