議論できないのか、議論してはいけないのか
夏にドイツにくる福島県高校生から感じるのは、議論ができないなあということです。同じドイツの高校生は、ドイツの政治や歴史についてよく知っています。それに対して、日本の高校生は日本の政治や歴史、特に近代史のことをほとんど知りません。
それが、ドイツと日本の若者が議論しようとしても議論ができない、議論にならない背景になっているのは間違いありません。
しかし、それだけではありません。
日本の高校生はこれまで、議論という議論をしたことがないか、議論することを学んでいないのも事実なのです。
こういう話をすると、日本の大学で長い間ドイツ語の講師をしたり、法学教授をしていたドイツ人の友人は、日本では教授会にしても議論する場にはなっていないといいました。
友人は、教授会で話したいことをキーワードだけでメモして、教授会にのぞみました。そうしてフリートークするつもりでいました。
すると友人は他の教授から、教授会で話をする時はしっかりと原稿をつくってきて、それを読み上げるのが日本の教授会のしきたりだといわれたのでした。
友人はそれでは、議論にならないと思いました。それどころか友人は、教授会自体が議論の場ではないことを思い知らされます。
教授会では、議論してはならないのでした。教授同士がいろいろ意見を出し合って、まとめていくのではなく、はじめから上が決めていた結論を単に了承するだけの場だったのです。
友人は、大学の教授会がそういう場なのだから、高校生に議論できなくて当たり前だといわんばかりでした。
議論しないように、議論できないように教育するのが、日本の教育の使命だともいえます。
縦割りで、上からいわれることを了承するだけの日本の社会構造では、議論できる人材は邪魔で、議論しなくても納得できるお行儀のいい人材しか必要とされないのです。
そのためには、学校で自分の意見をはっきりいって、議論できるように教育しない。それが、日本の教育の原則だともいえます。
日本の高校生は議論できないのではなく、自分の意見をしっかり持って議論しないように、議論できないようにされてきたのです。日本でそうした環境に育ちながら、いきなりドイツにきて議論できるはずがありません。
そうして教師になった日本の先生にも、高校生に議論できるように教えることはできません。
福島県の高校生は、ドイツの高校(中高統合校のギムナジウム)で授業参加して、ドイツの高校生が自分の意見を持って、授業においてそれを正々堂々と発言しているのを見てびっくりします。
その姿に影響され、そのうちに自分の意見をはっきりといえるようになって日本に帰国します。その成長は目に見張るほど早く、見ていて頼もしくなります。
しかしそういう高校生は日本に帰って、日本社会にどう対応していくのかも心配です。
中には、ドイツで将来に対して大きな夢を抱いて日本に帰っても、親に反対されて親のいう通りに、地元の大学に進学する高校生もいます。あるいは米国留学中に事故にあって、亡くなってしまった女子高生もいます。
また日本に帰ってから自分ばかりでなく、親自体も変わって、東京の大学に進学して就職した女性もいます。その女性はそうでなければ、地元の大学に進学して花嫁修行をし、地元で結婚するだけだったろうといっていました。
あるいは、大学に進学した後、日本の通信社やテレビ局に就職して活躍する若者もいます。
ドイツにきた高校生たちはこうして大人になり、日本の社会に入っていきました。高校生たちが大人になってそのまま日本の縦割り社会に入って、議論をしない社会に埋もれていくのか。あるいは、日本社会を少しでも変えようと、議論のできる場、社会をつくろうと努力してくれるのか。
ぼくは、若者たちの今後の成長と活躍を見守りたいと思います。
(2023年9月18日、まさお)
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