翻訳語の多い日本語

 英語やドイツ語などヨーロッパ言語に接していると、ヨーロッパ言語を翻訳したことばがいかに多く日本語に入り込んでいるかがわかります。

 たとえば、「極東」や「中東」、「近東」。これらは、地理的にヨーロッパを基点にしてそこから東に向かって近い所から近東、中東、極東と表現したにすぎません。日本語はそれを翻訳しただけなので、なぜ日本が極東にあるのかは日本語だけではわかりません。

 地理上の表現は、歴史の変遷によって変わってきているはずです。一七世紀に今の東欧から北アフリカ、アラブ地域、小アジアへと勢力を拡大していたオスマン帝国が、その後に衰退します。オスマン帝国は第一次大戦後に解体され、各地に国家が誕生しました。その歴史を見ると、近東や中東が正確にどの地域を指すのかあいまいで、流動的なことがわかります。

 明治維新後、日本には西洋の概念がたくさん入ってきました。輸入された西洋の概念の多くは、翻訳されてそのまま日本語になっています。西洋の翻訳概念が、その後の日本人の思考に大きな影響を与えてきたのは間違いありません。

 日本人は、西洋からの輸入概念をどう吸収し、消化してきたのでしょうか。

 ドイツに長く暮らしていると、ドイツでいう西洋概念が日本で一般化された西洋概念と必ずしも一致しないように感じることがあります。概念の基本的な価値が歪められていなければ、それは当然であり、問題ないと思います。日本に輸入された西洋概念が日本に合わせて新たな概念に成長しておれば、それはすばらしいことだと思います。

 西洋概念ができるには、歴史的な背景があります。その歴史的背景は、日本では体験されていません。この状況で、日本ではその基本的な価値をどう理解し、継承してきたのかも気になります。

 今の日本を見ると、輸入された西洋概念の基本的価値が理解されていないか、忘れられてしまっているのではないかと思うものもあります。翻訳されたことばだけが概念として一人歩きし、概念が表面的にしか理解されていません。

 ぼくは、たとえば「教会」は本来の意味からすれば「協会」にすべきだったのではないかと思っています。

(2017年12月17日、まさお)

この記事をシェア、ブックマークする

 Leave a Comment

All input areas are required. Your e-mail address will not be made public.

Please check the contents before sending.