地道な市民

産業リスクが増大する

 1986年4月、チェルノブイリ原発事故が起こった。それによって露呈したのは、原発事故によってまったく予測できない範囲で被害、影響が起こることだ。国家ばかりでなく、だれもぼくたち市民の安全を保障することができない。一旦事故が起こると、原状回復することも不可能だ。

 同じことが、2011年3月に起こった東京電力福島第一原発事故においても立証された。

 原発事故ばかりではない。産業革命後、ぼくたちは化石燃料を使って新しい産業を発達させてきた。それと同時に、環境を破壊してきた。公害によって起こる人体への影響は、把握しようがないのが現実だ。

 化石燃料という過去から現代に持ち込まれたエネルギー源を使うことによって、地球は温暖化している。化石燃料から発生する温室効果ガスを吸収する力が、現在の地球の生態系にはないからだ。それによって、異常気象が頻繁に起こり、各地で多大な被害が起こっている。

 デジタル化によって、ぼくたちの生活は便利になった。でもそれによって、電気に対する依存度を高まったのも事実だ。ただその分、一旦停電してしまうと、ライフラインがまったく機能しなくなる。その結果、ぼくたちの生活にたいへん大きな影響が出る。これは、2018年9月に起こった北海道地震でも明らかになった。

 また遺伝子工学やナノテクノロジーは、まだそのリスクがはっきりしないまま開発が進み、利用されている。

 技術ばかりではない。2008年に起こった金融危機は世界中に大きな影響を与えた。世界は、まだそこから立ち直れないでいる。

 これらは、産業が発達することに伴って生まれた産業リスクの事例だ。産業リスクは、ぼくたち自身の営みによって生まれてきた。これはまた、ぼくたち自身の自由への営みだったといっていい。産業技術開発の自由、それに基づく意思決定の自由、選択の自由が産業を発達させてきた。

 こうして、ぼくたちは豊かになってきた。

 でもぼくたちは同時に、そのリスクを予測も制御もできなくなってしまったのではないか。これが、高度先進化した技術を利用する現代産業社会のもたらす悪だ。リスクはぼくたちの能力と意思を超え、一旦事故が起こると、ぼくたちにはもう制御できなくなる。

 リスクは不確定要素で、予測できるものでも、具体化できるものでもない。ぼくたちにはものをつくる時、設計上安全係数を使って安全性を担保する以外に術はない。そして、その担保された安全が維持されることを祈るしかない。

 こうしたリスク社会に抵抗する方法は、ぼくたちにはないのだろうか。リスクの伴う生活をがまんしていくのか、あるいはそのリスクから解放されるのか。その選択肢があってもいいはずだ。たとえば、基本機能しかないとてもシンプルな技術やシステムを使うとか。

 でもそうすると、産業リスク社会から取り残されてしまう可能性が高い。ぼくたちは、リスクを回避する自由も失われている。

 ぼくたちはこうして、産業リスク社会に支配されている。

(2018年10月04日、まさお)

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