誰のための効率なのか

 石油や石炭、天然ガスの化石燃料と、原子力発電に利用されるウラン、太陽、風、水などの再生可能エネルギーは、発電や動力燃料とするためのエネルギー源だ。こうした自然界から得られるエネルギー源を一次エネルギーという。

 ぼくたちは、この一次エネルギーを電気やガソリンなど実際に消費できるエネルギー(二次エネルギー)に換えて、ものを造ったり、生活で使っている。

 ただ、一次エネルギーがそのまま二次エネルギーに換わるわけではない。二次エネルギーでは、一次エネルギーの一部が失われている。ただ、それは正確ないい方ではない。エネルギーは失われないので(エネルギー保存の法則)、一次エネルギーの一部が排熱などとして二次エネルギーにならずに排出される。一次エネルギーからどれくらいが電気などの二次エネルギーに変換されるのか、その割合を示すのがエネルギー効率だ。

 ここでは電気の場合について、さらに詳しく見てみよう。

 発電するには、まず化石燃料やウランを燃やして熱を発生させる。その熱で水を気化させて、蒸気を発生させる。次に蒸気でタービンを回し、その回転力で発電機を回して発電する。これが、火力発電と原子力発電の原理だ。

 火力発電のエネルギー効率は、発電所からの排熱を利用するかしないかにもよるが、概ね50%を超える。石炭火力発電よりも、ガス発電のほうが効率がいい。原子力発電では、エネルギー効率が30%を超えるものはまだないと思う。蒸気を発生させる発電方法は、排熱がたくさん出るだけ、エネルギー効率が悪い。

 それに対して再生可能エネルギーでは、エネルギー効率は風力発電で約50%、太陽光発電で20%を超えるものが出ている。開発中のソーラーパネルには、エネルギー効率が40%に達するものもあるという。でも、まだ実用化されていないと思う。ここでは水力発電が最も効率がよく、エネルギー効率は90%を超える。

 こう見ると、多くの発電方法では一次エネルギーの半分以上が電気になっていないことがわかる。

 ただここには、不公平がある。それは、エネルギー効率が公平に比較されていないからだ。

 化石燃料やウランの燃料を使う発電では、燃料のエネルギーを電気に転換するエネルギー効率をいっているにすぎない。でも化石燃料は、太陽の光エネルギーから光合成によって生物が成長してできたのだ。つまり、もともとのエネルギー源は太陽エネルギーだ。それなら、太陽エネルギーをどれくらい使ったかで効率を比較しないと、火力発電と再生可能エネルギー発電を同じ基盤で比較したことにはならない。

 また、化石燃料やウランの一次エネルギーを産出して消費するまでには、それを輸送するためにエネルギーが使われる。しかし発電のエネルギー効率において、それは考慮されていない。日本のように燃料のほとんどを輸入している国では、その輸送にもたくさんのエネルギーが消費されていることを忘れてはならない。

 さらに、大型発電設備から送電網を使って多量の電気を送電する場合も、送電線の抵抗によって電圧が下がるので、そこでも電気のエネルギーが失われている。しかし、発電地から電気の消費地の間で失われるエネルギーは、発電のエネルギー効率では考慮されていない。

 それに対して、再生可能エネルギーではバイオマス以外は燃料を使わないので、燃料を輸送するためにエネルギーを消費しない。電気はできるだけ発電したところで消費されるので、送電によるエネルギーのロスもない。

 こう見ると、発電のエネルギー効率が正確かつ公平に比較されていないことがわかる。それでも、再生可能エネルギーよる発電ではエネルギー効率が悪いと批判される。

 でもそれは、純粋に設備における発電だけについて見ているからだ。でも発電は、それだけで成り立っているわけではない。発電に関わるエネルギー全体で見れば、再生可能エネルギーのエネルギー効率が悪いはずがない。それは、誰にも簡単にわかるはずだ。

 でもどうして、そうならないのか。

 それは、経済システムが大型設備で発電する火力発電と原子力発電に依存する構造となってしまっているからだ。だから、そのシステムから外れるものはすべて効率が悪くなる。一旦システム化されたものは、そのシステムから見て都合のいいようにしか比較されないし、判断されない。それが、既得権益を守ろうとする仕組みの一つだ。

 燃料を使って発電すれば、確かに燃料を大量に消費したほうが効率が上がる。だから、設備は大型化したほうがいい。大型設備では大量の電気が発電されるので、それを大きな送電網を使って送電しなければならなくなる。そのほうが、効率がいい。

 これが、これまで構築された構造であり、既得権益だ。

 しかし、この大規模設備を基盤としたエネルギー供給構造が必ずしも効率がよく、経済的であるとは限らない。再生可能エネルギーでは燃料がほとんど不要なだけに、設備の大きさがどうであろうが、効率は変化しない。

 再生可能エネルギーによって小型設備で発電し、電気を地産地消すれば、再生可能エネルギーが最も効率がいいはずだ。太陽エネルギーをできるだけ直接に利用し、燃料の輸送も送電網も不要だからだ。特に過疎地など人口の密集していないところでは、小さなソーラーパネルさえあれば、短時間で電気を使えるようになり、生活レベルが格段に改善される。

 しかし、大型設備、大量送電を基盤とした経済システムでは、過疎地への送電は割が合わない。その投資と送電によって得られる利益を考えると、とても非効率だ。そのため、過疎地は既存のシステムにおいて冷遇される。

 これでわかると思う。

 効率とは、誰にとって効率がいいのかということでしか考えられない。ある人にとって効率がよくても、他の人にとって効率がいいとは限らない。でも、既得権益によって経済システムが出来上がってしまうと、効率は既存の経済システムにとって効率的かどうかでしか判断されなくなる。効率はこうして記号化され、事実のように一人歩きしていく。

 それが、効率だということだ。絶対的なものではない。非常にエゴイスティックに使われていることがわかると思う。

(2018年9月20日、まさお)

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