さよなら減思力

東ドイツの高校生がもたらした民主化の芽

 今から30年前の9月、東ドイツの首都ベルリンのパンコウ地区にあるオシエツキー高校で、高校生2人がポーランドの連帯を支持して、ポーランドの改革と連帯の政権参加を求める壁新聞が張り出されました。

 記事は、学校側が当局の許可を得て設置した「スピーカーズコーナー」に張り出されていました。新聞は、生徒の一人によってすぐに撤去されます。でも、記事は批判するコメントをつけて、翌日元の場所に戻されました。

 最初の壁新聞が張り出されてから2日後のことです。今度は別の生徒1人によって、新しい記事が張り出されています。記事は、東ドイツ建国記念日である10月7日に軍事バレードする意味を疑問視し、軍事パレード中止を求めています。賛同者の署名も求め、38人の生徒が署名していました。

 体制批判に慌てた東ドイツ当局と学校側は、署名した生徒一人一人と面談し、署名の撤回を求めます。しかし、2つの記事を張り出した生徒3人を含め、8人の生徒が署名を撤回しませんでした。

 学校の講堂に、全校生徒が集まられました。校長先生から生徒4人一人一人が呼び出され、退学処分を言い渡されます。2人が強制転校処分、残りの2人が厳重注意処分を受けました。

 当時の社会主義独裁体制下においては、体制批判するとこうなるぞという権威主義的な見せしめだったと思います。

 それから1年後の1989年11月、退学処分を受けた4人の復学が認められました。その直後に、ベルリンの壁が崩壊します。4人の名誉は回復され、大学入学資格も所得することができました。

 でもベルリンの壁が崩壊していなかったら、4人は家族も含め、東ドイツで一生迫害されながら生きていかなければならなかったと思います。

 自分の一生を台無しにすることを覚悟して、独裁体制下で自分の意見を貫いた生徒たち。その勇気は、ぼくの想像を絶します。

 これが、「オシエツキー事件」です。

 生徒を処分した当局に対しては、東ドイツの反体制派ばかりでなく、西ベルリンの教育界からも激しい批判が出ました。生徒たちの行動は、翌年東ドイツにおいて活発となる民主化運動の一つの芽をもたらしたといわれます。

 あれから30年。オシエツキー高校では、再び「スピーカーズコーナー」が設けられました。現在ドイツでは、ヘイトスピーチなどひどい内容の記事でない限り、生徒が処分されることは考えれません。

 でも、張り出された記事はまだごく少数だといいます。

(2018年10月05日、まさお)

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