シリア空爆と死者の差別

 米英仏の3国は4月中旬に入り、シリア政府軍が化学兵器を使用したとしてシリアの化学兵器関連施設を攻撃しました。

 空爆する根拠は、化学兵器を使うのは道徳に反し、黙っているわけにはいかないという論理です。

 ぼくはその時、広島と長崎に原爆が投下されたことに対する米国の言い訳を思い出しました。それは、原爆投下によってたくさんの人の生命が救われたという論理です。

 ぼくは、シリア空爆の論理と原爆投下の論理がとてもよく似ていると思います。

 その似ている点とは、何か。

 ともに、攻撃する側が死者を差別しているということです。

 原爆投下では、原爆投下によって死者が出てもいい。でも、その他の攻撃では死者が出ててはいけないという論理です。ここでは、攻撃する側が誰が攻撃で亡くなってもいいかを事前に区別して差別しています。

 この問題は、ぼくがドイツ人有志と一緒に、ポツダム会談時に米国トルーマン大統領が滞在した邸宅前に、当時広島と長崎で被爆した石を持ってきて記念碑を建てた時にもいろいろ議論しました。

 そしてシリア攻撃では、攻撃する側が化学兵器で亡くなった人には道徳的な義務を感じるが、従来兵器で亡くなった人には道徳的義務を感じていないといっていることになります。

 この論理からすると、ここでも攻撃する側が事前に死者を差別しています。

 でも、死者はすべて死者です。戦争によって亡くなった死者に区別はありません。どういう形で亡くなろうが、死者がでないよう最善を尽くすのが当然ではないのでしょうか。

 化学兵器の使用に関して道徳論を持ち出すなら、毎日亡くなっているシリア人に対しても道徳的な義務を持てといいたくなります。

 今回の攻撃において道徳論をいうこと自体、ぼくは西側諸国のシリア戦争に対する無責任さを感じざるをえません。シリア戦争がながびく発端は、アサド政権を倒そうとした米国に責任があるのではないですか。

 その結果、政治的にも、経済的にも勢力を失っていたロシアを政治的に復活させたのも西側諸国であることを忘れてはなりません。

(2018年4月20日、まさお)

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