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2006年1月18日掲載 - 文化
リチャード・ワーグナー
(2006年1月18日)

知人の女性のところに、ドイツにきて間もない日本人の女性から電話が入った。

「リチャード・ワーグナーについて、少し教えていただきたいのですが」

知人は一瞬、耳を疑った。リチャード・ワーグナー???一体誰のことかしら。


でもすぐに、『リヒャルト・ワーグナー』のことだと理解する。知人はピアニストなんだが、『リヒャルト・ワーグナー』のことならと、電話の主に筆者のことを紹介したのだという。結局電話の主は、筆者に連絡してこなかった。しかしこの電話の主は、筆者が常々気に病んでいる問題をどんぴしゃりと実践してくれた。


要は、ドイツ語の発音の問題なんだが、根本はそうでもない。


『リヒャルト・ワーグナー』は実際には、Richard Wagnerだ。だから、ドイツ語がまだよくできない電話の主は、これを英語読みに「リチャード・ワーグナー」とした。それからして、電話の主はまったく間違っていない。むしろ問題は、『リヒャルト・ワーグナー』にある。


Richard Wagnerはドイツ語で、[ríçart vá:gn∂r]と発音する。だから、Richardを「リヒャルト」とするのは問題ない。問題はWagnerを「ワーグナー」とすることにある。ドイツ語では半母音「w」は[v]なのだ。上歯を下唇に軽くのせて、たとえば母音が「a」であれば「ア」といってやる。そうすると、ドイツ語の「wa」となる。つまり、この音はむしろ濁音に近く、決して「ワ」という澄んだ音ではない。


ただ、このような音は日本語にはない。たとえばドイツ語の辞書には、「ヴァーグナー」と記されていたりする。ただ、「ヴァ」という音は日本語にはないので、実際には発音のしようがない。音からすると、日本語の「バ」に近いかもしれないが、こちらはドイツ語では「ba」で、上唇(!)を下唇に軽く当てて発音する。だから、同じ作曲家のBachは「バッハ」となる。


日本語にはない音なんだからどうしようもないではないか、ということになる。それで、「ワーグナー」と表記したのかもしれない。ただそうすると、「リヒャルト・ワーグナー」はむしろ、ドイツ語読みと英語読みが混合されていることになるのではないか。同じ「リヒャルト」でも、作曲家Straussは「ストラウス」ではなく、日本では「シュトラウス」とされているから、こちらは完全なドイツ語読みだ。


日本では、外国語の固有名詞を最も原語の発音に近いカタカナで音写するという慣用がある。同時に、慣用として定着したものは慣用となっているものを用いるという慣用もある。「リヒャルト・ワーグナー」は、後者の慣用を用いた表記なんだろうが、そうするとドイツでは「ワーグナー」といっても通じないという問題が生じる。この問題を避けるため、ドイツ語の辞書などでは前者の慣用にしたがって「ヴァーグナー」としているのだと思う。


前者の慣用で問題となるのは、たとえば欧州統一通貨のEuroだ。Euroでは、各言語毎に発音が異なるからだ。たとえばドイツ語では「オイロ」という。そのため日本では、一般的な外国語として「ユーロ」と英語読みが使用されている。ただ欧州最大の英語圏である英国がEuroを導入していないので、英語読みで「ユーロ」と発音されているのは、実際には小国アイルランドだけという奇妙な事態となっている。


Euroのように特殊なケースもあるが、筆者は原則として、外国語の固有名詞は最も原語の発音に近いカタカナで音写すべきだと思っている。これは、そのほうが現地で通じるからということではなく、現地のことば、文化を尊重すべきだからだ。ことばは、お互いに意思の疎通をはかるためのもの。お互いを尊重することなくして、意思の疎通は成立しない。だから、相手が実際に発音しているのに近い音をカタカナで表記したい。それが、相手のことば、文化を尊重しているという意思表示である。


たとえば、自分の信念で靖国神社に参拝しているので、それは話せば理解してもらえるといっている人もいる。しかし、自分の信念だ、信念だといったところで、自分の行為によって辛い思いをしている人の気持ちに耳を傾けずに、理解も何もあったものではない。辛い思いをする人の気持ちに耳を傾けないというのは、相手を尊重していないということだ。そうした態度で、相手に自分の信念は理解してもらえるはずがない。お互いに尊重し合える環境が成立しないからだ。


知らない国で、片言でも現地のことばを口に出すことで、知り合って、友達になったりすることがある。それは、そうすることで自分はあなたと話をしたいという意思表示をしているからではないか。ことばや文化の障壁を乗り越えてお互いに理解するには、自分から一歩相手に近付くことが大切だと思う。


ただ日本人はとかく、英語に頼りがち。英語であれば何とかなると思っている。日本の新聞紙上などでも、ドイツの固有名詞が英語風に表記されていることがよくある。ちょっとでも調べたり、聞けばすぐにドイツ語読みにできると思うのだが、それがなされていない。


数年前、日本のある有名な某レコード芸術という音楽雑誌に、ワーグナーのベイルート音楽祭と記載されていたことがあった。いくら英語で書かれた記事の翻訳を掲載したとはいえ、『ベイルート』はない。Bayreuthだから、英語でも「ベイルート」と読めないことはない。しかし、ドイツ語では「バイロイト」。日本でも「バイロイト」が慣用となっている。


実はこの『ベイルート音楽祭』は、たいへんなミスなのだ。筆者が目にしたときは、これじゃ、中東戦争が勃発するぞ、と思った。ヴァーグナーはアンチ-セミティズム(反ユダヤ主義)の作曲家として、イスラエルではタブーになっているからだ。それが、レバノンの首都ベイルートでヴァーグナーの音楽祭があれば、イスラエルが黙っているはずがない。日本の著名な音楽雑誌は、こうした事実も知らないのだろうか。もちろん、うっかりミスにすぎないかもしれない。しかし、うっかりミスで相手を侮辱してしまったら、それこそうっかりミスでは済まされなくなる。だから、ことばは慎重に扱うべきものではないのだろうか。


筆者のいっていることは、単に発音の問題にすぎないかもしれない。しかしそこには、ことばの違いを越えてお互いに理解し合うにはどうすべきかという問題が潜んでいるのではないだろうか。(fm)



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