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2005年11月13日掲載 - 文化
バロックオペラにはジーンズが似合う
(2004年7月22日)

現存する最古のオペラ作品は、ヤコポ・ペーリ(1561-1633年)作曲の<エウリディーチェ>だ。1600年10月6日に、フランス国王アンリ4世とメディチ家の令嬢マリーアの婚礼に際して、メディチ家の館で上演された。日本では、江戸幕府が成立する直前だ。


史上最初のまとまったオペラ作品は、同じくペーリ作曲の<ダフネ>と見られるが、楽譜のほとんどが失われてしまっていることから、<エウリディーチェ>が最古のオペラといわれる。


もちろん、ギリシア神話のオルフェーオ(オルペウス)とエウリディーチェ(エウリディケー)の物語を題材にした作品だ。ギリシア神話のオルペウス物語は、亡くなった最愛の妻を黄泉の国から連れ戻そうとしたオルペウスが、そのための条件を破ったことから、妻を再び失ってしまうという悲劇。しかし、国王の結婚というおめでたい席では、そうもいくまい。ペーリの<エウリディーチェ>は、オルフェーオが黄泉の国からエウリディーチェを無事連れ戻して、めでたし、めでたしとハッピーエンドで終わっている。


この作品は一度、コンサート形式で聞いたことがある。すべての台詞にはメロディがついているのだが、歌うというよりは歌で朗誦するという感じ。ただ、語る方に重点がおかれるレチタティーヴォ(叙唱)とも違い、話しことばと歌の中間のようなもの。歌らしいアリア(独唱)もあるが、音楽は台詞(詩)やドラマを盛り上げるだけのものとなっている。リズムや旋律にも、特にこれといった形式も感じられない。上演後に出版された楽譜には「エウリディーチェによる音楽」と記されているというから、オペラというよりは、「音楽付きドラマ」ということなのであろう。


和声形式(ハーモニー)が整い、豊かなドラマ性がまとまったオペラ作品は、1607年に完成したモンテヴェルディ(1567-1643年)作曲の<オルフェーオ>を待たなければならない。


こうした17世紀初期の時代からモーツァルト(1756-91年)が出てくる18世紀後半までのオペラを、バロックオペラと呼んでいる。ただし、ハイドン(1732-1809年)など、モーツァルトと同時代の作曲家のオペラはバロックなのだが、モーツァルトのオペラはバロックではない。


それはなぜか。モーツァルトは、宮廷社会のために書かれてきたオペラを市民階級に解放すると同時に、オペラのドラマ内容を人間化して、オペラを近代に導いた革命児だったからだ。


だから、現在耳にするオペラの基本はモーツァルトにあるといってもいい。実際、世界のオペラハウスで上演されるオペラ作品は、モーツァルト以後の作品が多くなっている。


しかし現在、バロックオペラが再認識され、ブームといえるほどになっている。上演されるのは、インスブルック(オーストリア)やハレ(ドイツ)など一部のバロック音楽祭が中心だが、ベルリンの国立オペラのように、毎年バロックオペラの新演出をプログラムに載せているオペラハウスもある。ドイツ生まれのヘンデル(1685-1759年)が活躍したイギリスでは、伝統的にバロックオペラが盛んだ。


バロックオペラを復活させ、そのすばらしさを再認識させたのは、80年代のチューリヒ(スイス)だと思う。アーノンクール指揮/ポネレ演出で、モンテヴェルディの3作品<オルフェーオ>、<ウリッセ(オデュッセウス)の帰郷>、<ポッペア載冠>が上演された。この公演はたいへんな衝撃であった、といまだに伝説のように語り続けられている。同時に、当時と同じ古楽器に対する関心が高まり、古楽器で演奏する楽団も増えていった。


筆者の周りの熱狂的なバロックオペラ・ファンには、チューリヒのオペラハウスがこのモンテヴェルディの3作品でベルリン公演を行ったときに、バロックオペラをはじめて本格的に体験をしている者が多い。それ以来、彼らはバロックオペラに酔ってしまい、バロックオペラに狂い続けている。


不思議なことに、ベルリンではバロックオペラの公演になると、若者の姿が目に付くようになる。ベルリンでもオペラファン層は全体的に高齢化してきているのだが、バロックオペラの公演になると、若者の数が格段に多くなる。それも、格別着飾ってきているわけではない。ジーンズが当たり前で、普段着の感覚でオペラハウスに来ているのだ。もちろん、例外もある。バロック時代の衣装に身を包んだ若いカップルは、貴族気分で颯爽としていた。こうしたパフォーマンスは、若者ならではのもの。


バロックオペラと若者。両者は、どうつながるのだろうか。


バロックオペラは、ギリシア神話を題材としていることが多いが、ドラマとしては単調なものとなっている。感情内容や感情表現は単純で、定型化、儀礼化されている。バロックオペラはアリア(独唱)が中心となるのだが、アリアで表現されるのは、惚れた、嫌われたの恋心が中心で、それに伴う嫉妬や嘆き、さらには意中の君を射止めた勝利の気持ちしかないといってもいい。音楽もパターン化され、繰り返しが多く、どこかで聞いたようなメロディだなと思うことが多い。その上、ひとつの作品が長いので、聞く方はかなりの忍耐力が要求される。


こうしたバロックオペラの特徴は、当時の硬直化した宮廷社会を反映していると思われる。豊かな宮廷社会は、退屈な生活から逃れて自分たちの欲望を満たすため、バロックオペラにこれでもか、これでもかと、浪費の限りを尽くした。テレビや映画などない時代。バロックオペラは、宮廷貴族の欲望を満たす数少ない娯楽手段のひとつであった。作曲家は作曲家で、次の作曲依頼が来るのを期待して、宮廷社会に気に入ってもらえるようにバロックオペラを書き続けた。バロックオペラがギリシア神話を題材としているのは、そうすることで宮廷貴族のインテリジェンスをくすぐっていたのではないかと思われる。


しかし、そうした時代の流れは、宮廷社会ばかりでなく、バロックオペラも硬直させ、新鮮さを失わせていく。こうした行き詰まった状態が改革されるまでには、前述したように、モーツァルトが出てくるのを待たなければならなかった。


贅沢三昧の中から生まれたバロックオペラ。それが現在、バロックオペラは普段着の若者に好かれている。何という時代の変わりようだ。しかし、バロックオペラが好かれるのは、当然ともいえるのではないか。それは、バロックオペラが、現在でいえば、メロドラマの一種だからだ。


メロドラマがいいのは、話の内容が単純な上、恋があって、嫉妬や嘆きもあるからだ。人間生活の現実にもありそうなのだが、現実にはないものや不自然さが付きまとう。つまり、メロドラマにはどこか虚の世界や退廃がある。しかし、それは虚の世界そのものがおもしろいのではなくて、その在り様がおもしろいのだ。


バロックオペラのおもしろさは、まさしくそこにあると思われる。バロックオペラでは、メロドラマの虚の世界や退廃がギリシア神話を題材として描かれている。しかも、単純で、単調なドラマとして。だから、バロックオペラはメロドラマの軽さで楽しめるのだ。それが、若者を普段着の姿で呼んでいるのではないだろうか。バロックオペラの音楽は、とてつもなく美しい。永遠の愛がすぐ手の届くところにあるのではないか、と錯覚させられるくらいだ。でも、現代の若者はこうしたロマンチックさに憧れると同時に、それが虚の世界や退廃であることを知っている。これが、当時の宮廷貴族と現代の若者の違いだ。現実派の若者には着飾って自分を見せつける必要はない。むしろ、舞台上で起こっていることと現実の自分に差があって当然なのだ。だから、若者は普段着でバロックオペラにやってくる。バロックオペラには、ジーンズが最高に似合うのだ。


こうして見ると、ギリシア神話が題材になっているからといって、億劫がったり、躊躇する必要はない。ギリシア神話の話の筋は知らなくてもいい。開演前に、軽い気持ちでさっとオペラの筋さえ読んでおけばいいのだ。後は、メロドラマの気分で美しい音楽によって装飾された虚の世界を楽しもうではにないか。(fm)



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